読書メモ:「コミュニティ 安全と自由の戦場」
うまく整理ができなかったので、読書メモ。
著書名:コミュニティ 安全と自由の戦場
著者:ジグムント・バウマン
要旨
(以下、私の読書メーターより)
コミュニティという言葉は現代でもよく用いられるが、本著においてはギルドなど村社会的な存在~産業革命以降の他者により定められたルーチンをこなす存在~現代の閉じたゲーテッド/ゲットーについて、など歴史を読みときながら広範に適用される。 脱領域化することがグローバル化であるという指摘は思い当たる方も多いだろう。実際世界中のパワーエリートは最適化されたように同じような生活様式を営む。 本著の、マクロな観点での分析はミクロな集団においても共通することが多そう。
○近代におけるコミュニティ
近代においてのコミュニティはかつての村社会的なものとは性質が異なる。かつてのギルド的相互承認、非代替性のあった集団は、産業革命を機に交換可能な機能集団として変化した。かつての形態が解体された今の時代においては、共通のアイデンティティを共有しコンテンツや事象によって求める「ペグコミュニティ」となった。
○パノプティコンから自己監視へ
コミュニティの代わりとして新たに世の中に置換されたものは、「近代的ルーティン」であった。生来のコミュニティから引きはがされた労働者は大衆となったことで、パノプティコン的一望監視すら不要となった。巧妙にデザインされたシステムは、規定された労働に従事し生活の中心とすることへと自己意識をむけさせることで、自己監視型として完成した。
○脱領域的エリート
グローバルエリートは、所属する国家において関心を持たない。彼らの生活様式は世界どこにいても均一なものとなり、社会文化における防御区域となっている。他の者たちから生活を物理・心理的に防御する、ゲーティド・コミュニティを築く。だがそれは本来的なコミュニティとは様相が異なる。
○多文化主義
エスニックマイノリティを認めることで、逆にそれに閉じ込めている。その内部の流儀・義務を遂行することは部外者にとってはスティグマとなる。経済移民に関しては厳重にブロックするダブルスタンダード。無関心を相互に決め込み異邦人として隔離するのではなく、そもそも人としての解を見つけ、妥協案を見つけるためには上辺をただただ認めるのではなく、「対話」を通して理解しあわなくてはならない。
うまくまとまらなかったのでかなり端折った。
概ねの概要は上記であるけど、読み込めていないので認識に間違いがあるかもしれない。コミュニティという小さな集団を対象としたものではなく、現代社会における集団に発した諸問題について語られた一冊であった。200pくらいだけど、なかなか濃密だ。