suna asobi

読書感想文などを書いていければ

「ウォーキングデッド」についての一考

「読書ブログ」などと書いて初っ端からなにしてるのだろう。

まぁ、書きたいこと書くのがよかろうということで。

 

今回は昨日考えたことを文章としてまとめておく。

色々とガバガバなんですが、専門家でもないんで生温かい目で見てください。

アメドラ「ウォーキングデッド」についての話です。

 

 

1.ウォーキングデッドの概略

アメリカドラマの中でも説明不要な知名度を誇る本作。

一応あらすじを書くと、謎のゾンビウィルスが蔓延し崩壊したアメリカで主人公リックとその仲間が安息の地を求めて移動しながら敵対する勢力との争いを交えつつ、他のコミュニティをつぶしながらコミュニティを築き上げていく顛末を描いた物語。

シーズン1は2010年より放映され、現在はシーズン9まで到達。出演者も当然年をとるので、劇中でも加齢により変化が起こる。特に子役は変化が顕著だ。

アメリカドラマあるあるだが、役者の都合など「現実の事情によって」普通に作中で重要人物が死んだり突然いなくなったりする。

 

huluやnetflixなどで配信され、huluでは最新話を見ることができる。

原作は同名コミック。登場人物や話の展開など、基幹部分は採用しているが展開が全く異なる。私はネタバレだけ読んだが未読である。

なおスピンオフとして「フィアー・ザ・ウォーキングデッド」*1というドラマもある。

 

 

 

2.ウォーキングデッドの現在

重要なところはネタバレしない程度に書いていこう。

あらすじとして書いた通り、概ねコミュニティの移動が主であったシーズン5までと異なり、それ以降のシーズンはアレクサンドリアという町に定住し、その他のコミュニティとの交流や構築が話の軸となっていく。

これまでも様々な場所で失敗したり殴りこんで他者の安寧の地を壊滅させてきた一行だが、ようやく腰を据えて安定した生活を目指すようになる。

 

シーズン6からは概ねそんな具合だ。他のコミュニティがいくつも登場し、協力あるいは対立による抗争が行われていく。なんだ平常運転ではないか。

シーズン8、9では諸々あって大幅に原作コミックと異なる展開を迎え、「文明の再建」をテーマにしつつ新たな脅威と闘っている。

 

3.作中のコミュニティについて

作中のコミュニティはいくつもある。

主人公たちが乗っ取って住んでいるアレクサンドリア」と「ヒルトップ」

世界観を間違ったとしか思えないコスプレ集団「キングダム」

昨日の敵は今日の味方だ「オーシャンサイド」

 

他にもいくつかあるが、そのうち2つほどはリックたちが壊滅させた。

こいつらのほうがヤバいんじゃないかな。

 

建設当初は権力争いや外部敵勢力との争いなどで不安定だった町の運営も、シーズン9では安定している。そこで食糧問題や町(世界)の老朽化、法の制定など「文明の復活」へと焦点が当てられるわけである。今日を生きることだけに必死だったグループが、明日をどう生きるかへと意識を向けられるくらいには世界が秩序だっている。

 

登場人物もポリコレを意識してか、アジア人枠・黒人枠・ラテン枠・LGBT枠と役柄が与えられ(死んだら同枠の別キャラが出てくる)、いずれも魅力的なキャラクターが多い。けっこう優遇されてる感がある。

不思議なことにその辺はかなりしっかりと配慮しているのだが、えげつないグロシーンは垂れ流してOKというアメリカのロジックはいまだによくわからない。

 

この辺りからも察する通り、ウォーキングデッドは現代社会における状況を投影している。私は作中における、「文明が滅んだ後に再興する、文明を持ったコミュニティ」が現代的なユートピアとして切望されていることが、いまだに支持されている理由だと考える。作品の方向性もそういう風に進んでいくだろう。グレートリセット願望ってやつだ。

 

主人公サイドのコミュニティにおいて、市民は男女や年齢に関係なく平等であり、相互扶助により誰もが代替不可能なチームであると同時に個人であり、思想を共有できれば共存共栄を願い支えあうことができるコミュニティ。多様性を示しながら逆説的に進むべき道がはっきりと、かつシンプルに共有できる小さな世界。

「私たち」「彼ら」、と阻害する「やつら」

まさに社会そのものであり、それでいてどこにもない。

 

ちなみにウォーカー(本作ではゾンビの呼び名は色々だ。主人公たちはウォーカーと呼んでいる)はもうオブジェと化しており、人間同士の争いによる死者のほうが圧倒的に多い。

 

4.ウォーカー(ゾンビ)について

ウィルス型の「感染する」ゾンビは現在ではデファクトスタンダードである。

起源は所説あるが、今回はそれには触れない。

本作でも感染型であり、噛まれたりするとアウトだが、他と違うのが「すでに全員感染している」ことである。噛まれることや本人が死ぬことがトリガーとなるらしい。シビアだ。

死んでいるので腐っている。体が細切れになろうが、脳が生きていれば活動するらしい。最近では棒で殴るだけで活動停止するくらい弱体化しているが。

昨今のアグレッシブゾンビと比べるとオールドスクールなパッシブゾンビとでも言おうか、走ったりはしない*2

 

舞台はほとんどアメリカの田舎なのだが、どういうわけか膨大な数が群れとなっている。虫でいう群知能のようなものか。これは本シーズンで活かされている。「経過年数のわりに残り過ぎだ」とか「なぜ脚が腐っているのに何十、何百マイルも歩けるのか」などと野暮なことを言ってはいけない

 

5.恐怖の対象

ウォーカーに対する扱いがぞんざいになってきているが、それも致し方ないことである。

当初は死者に対する畏敬があった保安官のリックも、敵を見つけ次第バンバン撃っていき、挙句は敵とみなせば人も平気でブチ殺しまくるサイコキラーのようになっていく(だまし討ちも得意である)。

リックのキャラクター造形の変遷は西部開拓者時代から現代のアメリカを象徴しているようで興味深い。

他の登場人物も長いこと生き残っているからか、モブでもサクサクとウォーカーを始末する。が、たまに無力な人たちもいてこいつらどうやって生き残ったんだと言いたくなる。まったく、これだから壁内生まれは…

 

映画史においてゾンビへの恐怖は原初、「死者が蘇り、死体が動き出す」における理解不可能性であった。超常現象的、オカルト的な恐怖と言ってもいい。

 

それが感染型を境に、「食われる・殺されること」となり、「自分も意思を持たない異業へと変異すること」「群れの持つ圧倒的暴力」へと変遷している。

これは動物的身体を持った対象への恐怖であり、どちらかといえば猛獣や狂犬病を持った犬への恐怖に近い。存在自体も「クリーチャー」に変貌したのだ。

一見してヤバいやつらだが、襲われたらいつやられるかわからない、その数は膨大である。もし攻撃されたら自分もあいつらと同じになってしまう…そういった類の。あるいは、理屈が通じない「ヤベーやつ」への恐怖。

 

先述した「昆虫における群知能」のように、ウォーキングデッドでは意思を持たないウォーカーたちがなぜか群れる。そして自分たちと異なる生物には集団で襲い掛かる(「臭い」による偽装をすれば気づかれない。これは本シーズンで活かされる。)

 

当初はゾンビへの恐怖が主軸であったが、後に人間同士の抗争へと話が移る中で、恐怖の対象も人間へと移る。根源は「相容れない思想・行動原理を持った集団」への恐怖心である。先述の通り、ユートピア的コミュニティを形成する上で排除すべきはこの原理なのだ。

わかりあえないやつらは潰せ!と繰り返してきたが、現在ではとある人物が死ぬ際に遺した遺志により、「過去を赦すこと」も重要なファクターとなった。これは作中でも意見がわかれて波乱を起こしたが、文明化した社会を構成する上で非常に重要なことである。

 

人間による行動原理が対立軸となったため、意思を持たないウォーカーは必然的にオブジェ化し(攻撃オブジェにもなるぞ)、びっくり箱や経験値稼ぎのモンスター扱いとなったが、本シーズンでは彼らの特質を生かすための救済措置であり権威復活としうる集団が登場する。

 

人間とウォーカーの力関係が再度逆転した世界において、数だけは多い弱者のウォーカーに意思を持つ強者が殺意を持って潜んでいたら?

これはなかなかいいアイデアだと思う。原作ではけっこうすごいことになっているようだ。

 

6.さいごに

私は「ゾンビものとしてどんどんつまらなくなっていく」と文句ばかりだが、なんだかんだそれなりに楽しんでいる。その理由は上記のように構造が数多の現実を反映してからである。アメリカドラマはマーケティング戦略も徹底しているので、時代の空気には敏感だ。観方を変えると、自分がゾンビモノになにを期待しているかもわかってくる。

ゾンビ映画自体は最近あまり観なくなったが(ジャンルとしてのゾンビはもう長いこと死んでおり、ある意味でゾンビそのものとなった)、恐怖の新機軸を打ち出す可能性が見いだせるという期待もあり今後も視聴を続けると思う。たぶん。

 

第1話「目覚めの朝」

第1話「目覚めの朝」

 

 

 

ウォーキング・デッド 1 過ぎ去りし日々【デジタル版】 (ヴィレッジブックス)

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*1:こちらはあまり評価が芳しくない

*2:シーズン1では元気な個体もごく一部存在した